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気ままにkakikukekon

芸能ニュースやテレビ番組の事を思うまま気ままに書いてます。                                    マイペースでゆっくり更新です。お気楽に覗きに来てくださいね~♪

カテゴリ: 引退会見

 
小室引退


会見日時:2018年1月19日
場所:南青山のエイベックス本社
報道陣:150人
ムービー:13台
スチル:74台
会見時間:約1時間40分

生年月日:1958年11月27日 
出身地:東京都府中市
身長:167cm
体重:57kg
血液型:O型


引退を決意 不倫騒動のけじめ

 小室哲哉です。
本日はお忙しい中、わざわざ足を運んでいただいて、ありがとうございます。
今回の報道により、妻であるKEIKO、家族、ファンのみなさま、その他スタッフのみなさま、いろいろな方々にご心配をおかけし、お相手の方にもご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。
僕なりのこの騒動のけじめとして、引退を決意しました。

KEIKOは女性から女の子みたいに

2010年まで遡らせていただきます。
金銭問題による、執行猶予付きとはいうものの、有罪判決を受け、2010年から5年の歳月を過ごしました。
そのなかで、妻・KEIKOの突然の病気。
救急搬送から入院、実家のサポートのおかげで仕事を続けてきましたした。

 KEIKOの後遺症は、
身体的な後遺症がなく、脳の障がいで、少し欲がなくなってしまったりとか、僕から見るかぎりで、女性から女の子みたいなになったのかなという感覚。
残念なことに、音楽に興味がなくなってしまった。
カラオケに誘ったり、音楽のネットを見せたり、CDを聴かせたり、一緒に聴いたりとか、僕なりにいろいろ誘うったが、音楽に興味を持つということは日に日に減ってきた。
歌うことはもうなくなりました。

漢字のドリルを

 KEIKOは小学4年生ぐらいの漢字のドリルを楽しくしてる。
夫婦と言うより父と娘。
大人の女性との対会話のやりとりというのが日に日にできなくなってきた。
電話、対峙して話すことが1時間、10分、5分、3分みたいなかたちで、非常に間が持たなくなった。
何度も繰り返しの質問であったりとか、そういうことでちょっと僕も疲れ始めてしまった。

 僕自身は、こちらのエイベックスのみなさまの支援、それから周りのいろいろな音楽関係者の方たち、いろいろなエンターテイメントの方たちの支援により、本当に恵まれていまして、いろいろな仕事をいただき、
それまでの当たり前だなと思ってた仕事が、当たり前ではなく、本当にありがたいなと。
どんどん仕事が入ってきて、本当に幸せだなと思う日々が続きました。



ストレスによる不調

 昨年2017年、C型肝炎になってしまいました。
2人で闘病みたいになってしまいまして。
当たり前ですが、KEIKOが普通の家庭の妻であるというわけではないので、闘病に関して看病であったりとか言葉をかけてもらうとか、そういうことはなかなか難しい状況で。
思い上がったことかも知れないですけれども、1人で闘病生活をして半年C型肝炎の治療をしました。
今もまだ闘病は続けております。
今さらですけど、そのときに仕事を縮小したりとか、芸能活動を縮小すなどして、もう少し2人の生活を基本に考えるべきだったのかなぁとは思います。
ついついみなさんの期待に応えたいという気持ちが強くて、テレビ、音楽創作などの仕事は続けてしまいました。

A子さん

 A子さんのクリニックは早朝や昼休み、ときには深夜イベント終了後、ホテルの滞在の場所であったりとか。そういうところで複数で来ていただいたことも、もちろんありますが、どうしても不可能なときはA子さんが往診に来てくれる日が増えてきました。
自宅でKEIKOがいるときにも往診は複数回来ていただいています。
残念ながらKEIKOの記憶にないという話は聞いていますが、実際は現実としてはそういうことがあります。
僕の甘さでなんとなく「容認してもらっているのかなぁ」というところもありました。
女性と会話する機会というのがほぼない状態が何年も続いていたので、
いろいろ話をしてしまったりとか、メンタルケアというのはきれいな言い方ですが、雑談に付き合ってもらった。
普通の病院の看護師さんの方にはそんなことに付き合ってもらえるわけもなく。
A子さんが雑談を聞いてくれて、点滴もあります。
すべて薬事法に基づいた医師の指示に従ったものです。
ただ、その施術の前後であったケア、いわゆる雑談みたいなことで心のゆとり、笑い顔みたいなこと。僕が普段できないこと、話せないこと、なんとなく楽しめないこと、そういう話を聞いてもらったりとか、そういう日々が2017年の8月後半くらいから始まりました。

男女の関係はない
 体調不良で来ていただいて、女性として来ていただいたことは一度もない。
精神的なこと、医療のサポート、それからぼくが体調不良で非常にお恥ずかしい話なんですけど、男性としての女性を呼び込みたいというような欲求というもののとは、ちょっとかけ離れておりまして、男女の関係というのはまったく考えてないです。
ありません。
誤解を生じさせてしまいましたし、往々にしてそういう男女であり得ることを想像させるような環境だったと思います。
これを最近、みなさんで使ってらっしゃる言葉で、使わせていただきますが、不徳のいたすところ、という言葉以外にはありません。

不安
 去年58歳の時点で、59歳になる、2018年には60歳を迎える。
1つ大きな節目。
才能、能力、創作とかではどうなのかな?という疑問が出てきました。
期待に応える音楽制作のレベルなのかな?ということ。
正直やり直し、やり直しということも増えてきました。
やっとの思いでできあがったもので、次の仕事の日々が多くなりました。
簡単にいうと不安、懸念、自信のなさ、というようなことが日増しに増えてきました。
KEIKOにも簡単な言葉で、悩みは言いましたが、先ほどお話ししましたように、音楽に興味がない人になっているので、「そうなんだ」という位のことだったのかなと。
不安な日々は続きました。


胸騒ぎ
 医療・精神的な知識を持ったA子さんがサポートしてくれる日々が続いて、ついつい頼ることになってしまいました。
正直わからないですけども、「こういった事態が起こるだろう」という胸騒ぎはしていました。
「こんなことをしてまかり通るわけがないな」という気持ちをずっと持っていました。
わかってもらいたいんだけど、わかってもらえない。
聞いてもらえない・・・わけでないんですけど。
聞いてはくれるんですけど、「理解をしてもらっているのかな?」と思う妻。
ピアノのフレーズをちょっと弾いても、30秒も聞くのがもたないくらいの妻。
そんなところで依存がA子さんに強くなってしまいました。
そういったピーク、自分でも胸騒ぎというか「もうここまでだな」と思っていた。
ちょうど本当、矢先というかタイミングというか。そういうことなのかわかりませんが、週刊文春さんが・・・。
戒めみたいなことなのかなと、今思っています。




引退
 皆さまに「お疲れ様」と言っていただいているような、祝福を受けまして、グラウンドの中に立ってスポットライトを浴びて、「長年ありがとうございました」というような、アスリートの方とか野球選手の方とかの引退セレモニーみたいなことを夢を見た日々も、ここ1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月は正直ありました。
しかし、自分の甘さからそういう環境ではなく。
こういったすばらしい場所ではあるものの、勇退される方とはかけ離れたこういった状況で、
今回の報道による罪を償うとともに、自分の身体的な限界であったりとか、それからこの音楽業界、エンターテインメント業界に僕の才能が本当に必要なのか、「もはやここまでかな」「ほかに音楽の新しさみたいのが作れるものがあるのかな?」という自問自答をずっと続けてきました。
報道されたというか、「報道していただいた」という言い方かもしれませんが、僕は音楽の道を退くことが、私の償いであると思いましたアーティストの方にとっても大切な曲だなと思ってもらえる楽曲もあったかなと思います。

 
今後も「この曲いいよな。歌いたいな。聴いてみたいな」とか、そういうふうに思ってもらう曲もあるのかなと思っています。そういう楽曲は退かないで生きていってほしいなと思っています。
僕のものではなくて、その楽曲はその歌う方のものなので、その方が生かして頂けるものであれば、そうなっていってほしい・・・
と思えば思うほど、僕の今のようなふらついた考え、自信のない考え、芳しくない体調、そういうことでのネガティブ、否定的、あまり明るくない、こういった状況が、自分が作った曲に影響がいってしまうのは、一番僕が望んでいない。

 
少し早まってしまったんですが、作曲家、音楽家、音を作るのは僕の仕事です。
すごい技術があるわけではないですが、ピアノであったりとか、そういったライブ演奏であったり、そういった音楽に関する仕事をすべて退きます。
現在、引き受けさせていただいている仕事はたくさんあります。
そういう方とは直接にはまだお話をしてないですし、
どういった思いを抱いて頂いているかということを聞かなければいけないんですが、望まれるのであれば、期待に応えるべく最低限のことを全うしてはいきたいと思っていますが、自発的な音楽活動は、本日をもって退こうと思っています。

 僕は基本的にテレビを中心とする芸能の方の仕事とは多少違うので、「本日退きます」と言っても、この夕方から姿を消す、ということが中々見えにくい職業でもあるので、興味を持たない方も含めてご迷惑をかけた償いとして音楽生活の引退発表とさせていただきます。


最後に

 今までのみなさんの報道の対応の仕方とは少し様子が違うかもしれません。
取材を受けてまだ5日しか経っていないので、今後の生き方であったりとか身の振り方などは少しお時間を頂いて考えたいと思っています。
そこにはKEIKOのことも含めてですが、一緒に考えていきたいと思っています。
勝手な苦渋の決断ではあります。
でも、今回のお騒がせした中での僕のかたちの償いではこれが精一杯です。
これからどれほど生活水準が下がり、どうなるのかは計り知れません。

まだまったくわからないですが、ただこういった場所で、こうやってみなさんに注目していただけるようなことは、もしかしたら今日が最後なのかなと思っております。
実直に受け入れようと思っています。

 TMネットワークから始まって今年で35年になりますが、本当に関係者のスタッフの方からメディアのみなさまがいなかったら、世の中に僕の音楽が広がるわけもなく、本当にお世話になったと思っています。
35年近く、本当にありがとうございました。
心から感謝しています。
まだ1週間足らずなので、戸惑いも正直ありますが、まずはみなさんの報道というものを通して、その向こうにいる方達に知っていただくのが先決かなと思って、今ここに座ってしゃべっております。
少し長くなりましたが、本当に心より感謝します。
ありがとうございました。

 時折、涙で声に詰まる場面があり、見ていて辛い記者会見でした。
妻KEIKOさんの介護、ご自身の病気もあり、しんどかったんでしょうね。
A子さんとの事は、安易だったかもしれませんが、週刊誌、コワいわ
正義をかざして、ひとひとりの人生を狂わすほど追い詰めるなんてね。


質疑応答

 何度も涙をぬぐう姿が印象的です。

左耳の耳鳴りが今も消えず、体調もすぐれず来年は60才、一般的な社会においての定年。

記者:引退を決めたきっかけは文春の報道?

ーそうですね。

記者:思い描いていた引退のカタチとは違った?

ーはい、全く違います。

記者:A子さんとは現在も連絡を取り合っているの?

ー事務的な連絡はせざるを得ないので、連絡は取っています。誤解を招かないように今後は戒めてやっていこうと思っています。

記者:KEIKOさんにはお詫びをして納得してもらっている?

ー全部話してあります。理解をしてもらえるかと言うのはこれからです。

記者:腕を組んだり、同じベッドで眠ったと認めているがどういう風に受け止めたらいい?

ー大前提で体調不良で来て頂いてる方で、一般の男性が望む女性を招くという感覚とは違う

記者:精神的な支え?

ーかなりそうでした。お恥ずかしい話ですが、5年6年と普通の男性としての能力がなくて・・・。
精神的な支えでした。

記者:KEIKOさんへの説明はいつ、どんなリアクション?

ー大変特殊な例だと思っておりますが、「こういう事でゴメンね」と言うと、簡単な単語で「わかったよん」「これは嫌だな」短い言葉のやり取りをしていました。

「わかったよん」一般の奥様の言葉とは違うというか、どこまで理解してくれているのか・・・。

記者:どこまで理解してる?

ー年に数回普通の会話をしてくれる時があり、その時に「私、普通じゃないよね」といってくれる事があって、僕の甘えですが、脳のどこかが寛容でいてくれてるのかな・・・

記者:離婚も考えてる?

ー女性と言うより子どものようなKEIKOのほうが愛が深くなっています。

記者:活動休止と言う選択肢はなかったの?

ー2010年に、大変な事をした、恐ろしい事をした。
ぼくの場合は普段の生活(執行猶予がついた為)はできたけれども、やっぱり償わないといけないんだなーと言うのが他の方よりも強いのかなーと思います。
自粛とかこのぐらいでいいんじゃないかというような償い方は違うんじゃないか。
自分ができる最大限の償い方をしないといけないんじゃないか、というところが重なってしまってる。

記者:満身創痍にお見受けしますが、引退後は、KEIKOさんと幸せに暮らしていくよという気力はお持ちですか?

ーこうして、皆さんの前でお話するというのはが今精一杯のエネルギーと言うのが正直なところ。
この後、なんて事を言ってしまったんだろうか、という悔いが出てくることは十分考えられます。
「悔いなし」なんて言葉はひと言も出てこないです。
ただ、この日にち、この環境だから出てこないだけであって、誕生日であったり、何月何日をもってだとか、例えばライブをやってだとか楽しく、勇退できる環境であれば「悔いなし」と言えたのかなーと思います。遅かれ早かれというのが精一杯です。
ファンの皆様の声は聞いていきたいと思っています。



        



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松居一代


船越英一郎さん
船越

2017年12月13日に俳優の船越英一郎氏との離婚が成立しました.
昨年6月よりyoutubeに船越英一郎氏を中傷する動画をアップしお騒がせをしていましたね。

会見場所:都内ホテル
報道陣:約200人
テレビカメラ:10台以上
時間:約30分

「勝利を勝ち取ることができました。人生の大掃除ができました」と勝利宣言。
さすがお掃除専門家でもある松居さんらしいコメントです。

でも、これ不思議じゃありませんか?

もともと離婚をしたいと調停に持ち込んだのは夫の船越英一郎さんの方です。
話がすり替わってる。
やったやった!ガッツポーズの松居さんには違和感がありますよねー。
 2人の共有財産である都内の一軒家の敷地は約260平方メートルで、地価は推定2億円。土地と、建物の5分の4を松居が、建物の5分の1を船越が支払い、購入していた。調停では、松居が船越の持ち分を買い取る形でまとまったという。当初に求めていた船越からの謝罪は、もはや必要ないとした。
謝罪をしてほしいのは船越さんの方かも知れません。
離婚調停は決着がつきましたが、船越さんの事務所から名誉棄損で訴えられている裁判は未だ続いています。

大勢の報道陣の前で自身の母親に電話をかけ、「おかあちゃん、おかあちゃん」と離婚報告をする様子は、見ていてなんだか恥ずかしかったな。


        
 





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浅田真央

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 元フィギアスケート選手の浅田真央さんが、文化活動で業績をあげた個人や団体に贈られる「第65回菊池寛賞」を受賞されました!

「名誉ある賞を頂けて、うれしいです。これから自分ができることを精いっぱいやっていきたいです」と述べた。

 現役時代は、世界選手権とグランプリ(GP)ファイナルで計7度の優勝、2010年バンクーバー五輪では銀メダルを獲得するなど活躍されました。

菊池寛賞

1952年、文藝春秋創業者・菊池寛が日本文化の各方面に残した功績を記念するための賞として創設。
菊池寛にとって生前関係の深かった文学、演劇、映画、新聞、放送、雑誌・出版、および広く文化活動一般の分野において、その年度に最も清新かつ創造的な業績を上げた人物あるいは団体を対象としている。
受賞者には正賞として置き時計、副賞として賞金100万円が贈呈される。
過去には映画監督の宮崎駿、女優の吉永小百合らが受賞している。


記録よりも記憶
真央さんは賞にこそ恵まれませんでしたが、その分、人々から愛されました。
どの演技も印象に残っています。

バンクーバーオリンピックは銀メダル、ソチオリンピックでは6位入賞。
ゴールドメダルは叶いませんでしたが、その演技は金メダルよりも輝き、ソチではショートプログラムでの失敗を巻き返すかのようなフリープログラムでの鬼気迫る迫真の滑り。
その後の涙。
そして真央スマイルは世界を中をメロメロにしました。


        
 





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伊達公子


会見日時:2017年9月7日
場所:有明コロシアム
報道陣:132人

生年月日:1970年9月28日 
出身地:京都市

現在の心境 
 今はまだ最後の試合が残っているので引退と言うよりは、試合に挑む中でこれまでの時間と同じように、自分のやるべきこと、そしてやらなければいけない事を最優先にしています。ただ体のこと(ケア)に時間を割かなければいけない事が多くなってきていますので、練習量の質など求めることは多くなってきている、その中でも今やれることは。試合当日に体のコンディションをよい状態に持って行くという事。


決断 

 昨年の4月に膝の手術をしまして、5月に復帰戦を果たしましたが、その後なかなか万全と言える状態にはなりませんでした。
それでもきもちが衰えることはなかったですし、気持ちが落ち込んだり、もどかしさを感じることは多くなっては来ていたんですが、それでも時間をかければ必ずできる!と言う思いをずーっと持ち続けていました。
ですが、膝に加えて肩にも問題を抱えるようになってしまい、ドクターと話をし、決断を決意しなければいけない時期なのかなと。


引退試合 ジャパン・ウィメンズ・オープン

自分の体と相談する事、自分の思い、そんなことを考えてると、今の私には東京にしたいという思いが強い。


ファーストキャリア 思いでの試合

90年代のファーストキャリアの中では?

この有明コロシアムで、公式戦ではないですが当時、世界ランキング1位だったグラフと戦って勝利した試合は忘れられない試合です。
有明コロシアムに立ち見のお客さん、入れななかったお客さんが、最後には会場に足を運んで頂いて、当時私は足を怪我していてある子事さえままならない中で戦って。
日本がドイツに勝ったという事、私がナンバーワンだったグラフに初めて勝てたという事。
この試合が1番思い出深いです。
ウィンブルゾンのセミファイナル、日没により2日間にわたって戦ったグラフ選手との準決勝が忘れられない。

グラフ選手
 私にとっては憧れと言うか、その当時は断トツと強さでしたので、もう憧れとは呼べないくらいの存在感と強さを持ち合わせてた。
真のアスリートだったんじゃないかと思います。
ナンバーワンであるべきプレイヤーで、目標とか憧れとか呼びたくても呼べない位の格別な存在です。

セカンドキャリア 思いでの試合
 たくさんあって・・・。
1つ1つがチャレンジの連続だった。
元々は世界レベルを目標に最チャレンジを始めたわけではありませんでした。
全日本選手権を目標にスタートを切ったんですけども、そのための準備としてITFの試合に出た事によってランキングがついてきて、結果気がつけばグランドスラム予選に挑戦できる位置まで来ていて、本選に出ることもできた。この試合も思い出に残っていますけれども、敷いてあげるならば、ウインブルドンのビーナス戦。
勝負には負けてしまったんですけれど、今の女子のパワーテニス、スピードテニスと言われるものに対しての、自分の展開の早いテニス、ネットプレイと言うものをミックスする事によって対抗できることができた。
試合後、たくさんの方たちから言葉をかけて頂いた。

原動力はどこから?
 復帰して9年半。
プレイヤーとして数々の最年長記録を塗り替えてきましたけれども、成長させた原動力は?
テニスが好きで、スポーツが好き、そこに尽きるのかなと思います。
90年代は今とは全く違う選手環境だった。
それを全て受け入れる精神力、器もなかった。
当時で言えばメジャーリーグに居た野茂さん、ゴルフで言えば岡本綾子さんしか海外で戦う人がいなくて、海外メディアから、「野茂を知ってるか?」と聞かれたが、対応する力もなかった。
自分にも強い固定観念があった、それと向き合う事、勝ちたい、勝ち続けなければいけないと思う気持ち、そういうものに耐えられるだけの精神力。
90年代は常にいっぱいいっぱいの中で戦ってきた。
それに疲れ果てていた部分が多かった。
再チャレンジを始めてからはツアーが楽しくて、勝つ事だけが目的ではなかった。
日々起きることに対するチャレンジが楽しくて、必ずしも結果としてつながることが自分の達成感ではなかった。
だから、再チャレンジから9年半も続けられたと思います。

若い選手に刺激
 再チャレンジは若い選手に刺激をという事だった。
2年目からは自分のチャレンジという事が大きくなっていた。
自分がチャレンジしていることを若い選手たちがどう見てくれていたかと言うのは私には計り知れない事ではあります。
何かしらみんなに影響を与えていればいいなと言う思いは持っています。

引退を惜しむ声に対しての思いは?
 それぞれのフィールドで活躍されてるアスリートの皆さんから力強いお言葉を頂けるのは嬉しい事です。テニスと言うのは個人プレイで年齢を超えて活躍できるポーツだと思う。
今は完全復活している30代の選手が少なくない。
そういう姿を今の若い選手たちに示すことは刺激になると思います。
そう言う意味では私自身も少しは示すことはできたのかなと言う思いはあります。
またアスリート以外の人たちにも。
まだまだ女性が生きづらい社会ではありますが、妥協してしまうところ、そこには年齢に関係なく自分がやりたい事を思い続けること、始める事。
そこに少しの勇気を持てば、まだまだ自分の世界は切り開けられるという事は少しでも示すことはできたのかなと言う思いはあります。

あらたなる挑戦は?
 まだ次の試合がありますので、まずはコートに立って100%には程遠いですが、今の自分にできる最大限のプレイをする事、そこに準備をする事、そこにしかエネルギーを使ってないのでまだどうするかまだ考えていなくて。
試合後、心配事は肩になると思うので。
自分に何ができるのか少しずつ考えていきたいと思っています。
1回目の引退の時のように、しばらく何もしたくない、コートも見たくない、ラケットも握りたくないなんて事にはならないと思います。

どのような競技人生だった?
 こんなに幸せなアスリートも、そういないんじゃないかなと思います。
やはり、2度も世界のトップレベルで戦うチャンスを得ることができて。
1度目は当然ランキングにこだわって、自分の目標としてたトップ10。
最高では4位。
トップレベルで戦う事が出来たファーストキャリアと2度目の再チャレンジ後は30代後半から40代前半といいなかでトップ50と言うものをクリアできということは想像できなかった事。
何よりツアーも楽しく、若い選手たちと仲良くツアーを周りながらいっつも冗談を言い合った。
試合も快くしてもらいました。

3度目の復帰の可能性は?
 さすがにそれはないですね。
やれるものなら、ホントにまだやりたいですし、次の試合であれ?案外痛みなくやれちゃうし、引退撤回します、なんて言いたいところなんですけど、今回はそれはないかなと思います。


錦織圭選手からサプライズメッセージ
 伊達さん、お疲れさまでした。今まで僕自身はとても刺激をもらっていましたし、数多くの後輩もみんな刺激をもらって切磋琢磨で来ていたと思います。これからの人生も楽しんで伊達さんらしく、生きていってください。これからもよろしくお願いします。

伊達さんから錦織選手へ返礼

 彼も今苦しんでる時期ですけれども、あの体でトップで戦う事の厳しさ、タフさ。
またそこにいる時間が長くなればなるほど当然難しい事は増えてきてると思います。
私もレベルも時代も違いますけど、トップで居続ける事の難しさって言うのは、同じように感じることはできたし、今の男子の平均身長がかなり高い中で、彼の身長あの体はトップ40でいるこさえ大変なのにトップ10にいる。
いろんな難題をクリアしながら、そして結果を残していくのは難しい事、ここからまた彼には様々な試練が待ち受けていると思うので、体を作り直してもう一度今の位置に戻れる強さと精神力を養っていけるだけのものを作ってほしいと思います。


最後に
 これからまだ引退試合を控えてますので、実感があるような、ないような気持ちの段階ではあるんですけれども、競技者としてテニスコートを去ると言うのは、ホントに淋しいし、残念でならないんですが、一生できるものでないですし自分の中で一つの区切りとして。

 今回の引退は私とテニスを切り離すものではないですしこれからもテニスと向き合って、どういう形になるかは時間をかけて考えていきたいと思っていますが、テニスに対する思いはずっと持ち続けて。
これからも自分の隣にテニスはあるという人生にしていきたいと思っているので、そう思うとそんなに淋しくないのかなと思うのと、ただこれからツアー仲間やスタッフ、審判の人とかそれぞれの国にいくと必ず会えてた人達の顔ももう見れないのかなと思うと淋しいと思うんですけれど、とは言え2度も達成感を感じる日々を経験できたことは、何にも代えられないものなんじゃないかなと。
 
 ほんとにテニスに出会えてよかったと思います。

 最後の試合、どこまで自分らしさを出せるかわからないですが、強い思いだけは心の中に持ってコートに立ちたいと思います。
皆さんの記憶に残る、目に留めて頂けるように。
多くの人に会場に足を運んでいただいて、皆さんと時間を共有できたらと思います。
ありがとうございました。

 1度目の引退会見よりも笑顔の多い引退会見でした。
ステキに年月を重ねられてる大人の女性。
ステキな伊達公子さんでした。
これからもますます輝かれる事間違いないですね。

        



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黒田博樹 
 
「満足できる野球人生だった」

黒田

会見日時:2016年11月4日
報道陣:150人
TVカメラ:15台
時間:6分

生年月日:
1975年2月10日 (42歳)
出身地:大阪市住之江区
身長:185cm
体重:
92 kg
学歴:専修大学


現在は野球解説者。

父は元プロ野球選手の黒田一博。
日本人投手で史上初めてNPB/MLB通算先発勝利数のみで200勝を達成した投手。
また、NPB/MLB40球団勝利を記録した唯一人の日本人選手でもある。

        



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