サワコの朝 2021年2月20日 #468 西川
サワコ
ー今日は大変な努力をなさっている、素晴らしい演奏をなさる西川
右手5本、左手2本と言う状態でニューヨークで活躍している?
西川
ー( ´∀` )自分で活躍しているとは言えないんですが、拠点にやってますねー
和やかな雰囲気で番組が始まりました。
ゲストは西川
1974年生まれ(46才) 大阪府出身
7本しか動かない指でピアノを弾き、ニューヨークを拠点に世界中の観客を魅了してきました。
指が動かなくなったのは20代半ば。
突如として筋肉が硬直して指が動かなくなってしまう謎の多い病「ジストニア」に冒されてしまったのです。
西川
ー明日になったら、これよりましになってるのかな?と思って次の朝弾いた時にさらに悪くなっている。練習をすればするほど悪くなる。鬱っぽくなった時期がありました。
それでもピアノを諦めなかった西川さん、そこには意外な理由がありました。
逆境をプラスに変える前向きは生き方に迫ります。
西川さんが選んだのはこちらの椅子
サワコ
ーピアニストとしてアメリカで活躍してる途中に指が動かなくなっちゃうっていう?
西川
ーそう、ジストニアっていう脳の病気で指が動かなくなったので。
サワコ
ーリューマチではないのね?
西川
ー痛みはないので。
普段は動くんですけど、ピアノを弾こうとした時、ある一定のポジションになった時だけ、くッと指が曲がっちゃうんです。
普段は動くのに、弾こうとしたら・・・
今、右手は5本指で引いてますが、中指と子指は(うまく動かない症状が)残ってる
サワコ
ー初めは何だと思った?
西川
ー最初は筋肉疲労だと思ったんですよ。
だからストレッチ、水泳、ランニングなど、あと針とかやって。
でも治らなくて、だんだんひどくなってきて。
サワコ
ージンジンと暗い気持ちになってきて?
西川
ー多分、すごいプレッシャーと練習量で自分で神経を痛めたんだと思います。
サワコ
ー治らないんですか?
西川
ー18年ほど前にアメリカで診断してもらった時は、治らないとは言われましたけど最近は、脳の手術とか再生医療で幹細胞を打ったりとかしてるんです。
ただ、まだ治ってないですけど。
サワコ
ー実際に観客の前でコンサートをされてる?
西川
ー最近やり始めました。
サワコ
ー皆さんが感動なさる演奏ができるわけでしょ?
西川
ーはい、そうですって言えないじゃないですか
サワコ
ー質問の仕方、訊く力がないわね、すみません
気を取り直して、
記 憶 の 中 で 今 も き ら め く 曲
西川
ーショパンのノクターンop.9-2。
中学の時、ブラスバンド部でチューバを吹いていたんですがサックスを吹いていた男の先輩の家に遊びに行ったときにに、このショパンの曲をさっと弾いてくれた時に、体中電気が走って、わぁ~かっこいいなーと思って、ピアノに興味を持ち始めるんですね。
うちピアノなかったんです。
サワコ
ーある意味原点になった曲ですか?
西川
ーそうですね、そうです。
サワコ
ー繊細な中学生だったんですねー
男の子でこんなロマンチックな曲に電流が走るなんて西川
ーのた打ち回ったのを覚えてます。
うわぁーと苦しくなって胸が。
釣り上げたエビみたいになっちゃって
サワコ
ーピアノはどこから始まったんですか?
西川
ーブラスバンド部の顧問の先生がすごく好きで、先生はどこの大学に行ったの?と訊いたら大阪音楽大学で、じゃあ僕も先生の後輩になりたいと。
先生のピアノを聞いてて「先生、やっぱり僕ピアノ科で大学行きたい」って言ったら、大阪弁で「あんたな、ピアノ科って言うたら大体3才か4才から英才教育受けて、ずーっとレッスンこなして、1日5時間6時間7時間8時間、練習しても通るか通らへんかわからへん狭き門やで、あんた今日ピアノ始めたんやろ、絶対無理やわ」って言われて。
その時、いや、僕、絶対行くってスイッチがボンって入った。
それでほんとにピアノ科行ったの。
最初は大阪音楽大学の短期大学だったですけど。
それで卒業して「たねや」(1872年創業)という和菓子屋さんに就職しました。
サワコ
ーなんで、お菓子屋さんに就職したの?
西川
ー僕、デパートが好きで。
大阪の高島屋の中にある「たねや」さんが募集してたんです。
そこに入ると社員割引がきくんです、高島屋の。
店頭販売してました。
頭巾かぶっていらっしゃいませって。
割引もきいてお金(お給料)ももらえて
サワコ
ーじゃ、その間はピアノからは離れて?
西川
ーいや、練習は続けてたんですよ。
高校生のころからずーと同じ調律師さんで、ある日
その時ちょうどデパートは書き入れ時の繁忙期で練習してる時間ないわーって断ったんです。
そしたらその調律師さんが「悟平くん、どこの世界に音楽大学卒業してピアノのオファー来てんのに饅頭売るのが忙しくてオファー断るアホがおんねん。君がないのは時間じゃなくて自信や」って言われて、ムカー💢ときて「じゃあ出る」って出たんです。
その時は10本の指が動いたのでショパンのバラード1番っていう10分くらいある結構難しい曲を弾いたんですよ。
その時、ものすごく緊張しまして演奏中5回くらい止まりかけたんです。
あー、終わった・・・って楽屋で1人で泣いてたの。
サワコ
失敗した―と思って?
西川
ーそう。
そうしたらデイヴィット・ブラッドショー先生が出番の前にやってきて「すごくドラマチックだったよ、君は心の中に表現したいものがたくさんあるんだね、でもその表現をする技術を知らなかったね」って。
「君は今、なんのお仕事をしてるの?それは君がやりたいことなの?本当にやりたいことは何だい?」と聞かれて。
「できることならピアノがもっと上手くなりたい。そして演奏で世界中を旅してみたい。そして音楽を通じて世界中に友だちを作ってみたいんだ」って言った瞬間、顔が真っ赤になって汗をバーッてかいたんですよ。そんなことありっこないと思ったから。
そしたら先生が「何をグズグズしてるんだ、今日から準備を始めなさい。今すぐ荷物をまとめてNYに来なさい。うちに住んでいいから、レッスン代も要らないから。技術を教えてあげるから」って言ってくれたんです。
それで、ええ話やなぁーと思ったんです。
24才で世界的ピア二ストのデイヴィット・ブラッドショーに才能を見出されNYへ
西川
ー当時日本人はビザなしで3か月間しか滞在できないから、それで帰るはずだったんですが、2ヶ月が過ぎた頃に、デイヴィット・ブラッドショー先生が「日本に帰る前にNYの公共の場所で演奏してからにしてはどうか、君が帰る前にひとつコンサートを入れるね」と言われたんです。
それがアリスタリーホールという1,000~2,000人入る大きなホールで、怖いからイヤだ、キャンセルしたいって言ったら、「たとえ100%準備ができていなかったとしても、目の前にチャンスがきたら掴んでみたらどうだ?失うものはないじゃないか。もし、このチャンスを掴まなかったら二度と同じチャンスは来ないかも知れないよ」と言われて。
もし緊張してグチャグチャになったらどうしたらいい?と訊いたら
「いい考えがあるんだ、グチャグチャになるなって思った直前に気絶しろ、舞台の上で。そしたら俺がマスコミに情熱のピアニスト日本から上陸、パッションのあまり舞台で失神と俺が売り込んであげる」って真顔で言ってんの。
19世紀の有名なピアニストでその方法で勝ち残った奴がいるんだ。
暗譜がわかんなくなって失神した振りをして担架で運ばれて、その人の死後に、日記から判明したと先生が僕に真剣に教えてくれて「
さすがNYだと思った。
それで気が楽になって出演したらスポンサーがついた。
それで一度日本に帰り、3ヶ月も待っててくれた「たねや」(和菓子屋)で後輩に指導して、ビザを持って学生になってNYに戻ったんです。
そして必死に練習して。
必死になりすぎてジストニアになっちゃいました。
サワコ
ーそれはNYに移転を決めてから?
西川
ー本当に直ぐだった。
練習をすればするほど悪くなっていくんです、この病気は。
明日になったらましになってるかなって希望を持って寝て、次の朝弾いたらさらに悪くなってるっていう状況で鬱っぽくなった時期がありました。
*ジストニア:楽器演奏者・作家・アスリートに多いといわれる脳の病気
西川さんの場合は普段は思い通りに動く指が鍵盤をたたこうとすると硬直してしまうというもの。
そんな西川さんを救ってくれたのは子どもたちでした。
西川
ーNYから一時間ぐらい離れたところにインターナショナル幼稚園を経営してる友人から「気分転換に遊びにおいで」と言われたんです。
そこで子どもたちからピアノを弾いてと言われて、その時は右手3本、左手が2本動いたんです。
サワコ
ー5本?
西川
ーはい。人前でそんな指を見せるのが恥ずかしい時期があったんです、今はもう慣れたけど。
でも右手3本あったらメロディー弾けるし左手2本でベース弾けると思って5本の指で「きらきらぼし」を弾いたんです。
そうしたら幼稚園の子どもたちは僕のひん曲がった指を全く気にせずに聞こえてくる音だけに純粋に反応して歌って踊ってくれたんです。
それまでは昔の自分が弾けたことに執着があったんですね、5本しか動かないと思ってけど、その時に右は3本も動く!左は2本も動くじゃん!和音が弾ける、ベースが弾ける。
それで「赤とんぼ」「大きな栗の木の下で」簡単な童謡を弾くようになって段々と7本の指が動くようになってきた。
だから助けてくれたのは子供たちなんです。
昔のぼくはいかに上手に弾こうかとか、カッコよく弾こうかと俗的な欲望があったんですけど、今の僕はうまく弾けないから、どうやったら心に響く音が出せるだろう?ということに意識をしています。
それでNYに残れたんです。
逆境をプラスに 本当なら大変な事件も笑える思い出に・・・
西川
ー5年前の2016年のこと
その時はNYビルの最上階に住んでたんですけど、平和ボケしててカギをかけてなかったんです。
夜10時くらいに、ドアがガチャガチャして不思議に思ってると黒人のガッチリした男とラテン系のスリムで若い男、2人が入ってきたんです。注射器を持った黒人が僕に突き付けてきて、ホールドアップ(お手上げ)したんです。
の間にラテン系の男が僕の部屋に入っていろんなものを取ってるんです。
サワコ
ー確実に泥棒なんですね?
西川
泥棒です。
僕は恐怖心で一杯だったんですけど、そのうち好奇心が出てきて、どういう幼少期を過ごせばこうやって人の物を取るような人格、精神構造になるんだろうと思って「Excuse me?Can you speak?」少し話せますかと聞いたら「うるせー、黙れ!」と汚い言葉で言われて、「ごめんなさい!どんな幼少期を過ごしたか気になっただけです」って言ったの。
そうしたらラテン系の男の手がピタッと止まって「俺は4才で親父からの虐待を受けてきた、母親はアル中で相手にもしてくれなかった。そして両親が出て行って自分はホームレスになった。お前にあの痛みがわかるか!?」と言われて、小さい子どもがそんな経験したなんてと僕の方が泣けてきたの。「大変だったね、そんな思いしてきたんだ。僕の家に大したものはないけど、なんでも家から取っていいよ」って言ったの。
そしたら注射器を持った男が「おい!お前日本人か?おまえら日本人はな、他人に対して優しい文化だから好きだ」って。
僕は嬉しくなってThank You Very Much !!って。
マンハッタンのど真ん中で日本の文化を褒められたいじょう、和のおもてなしの心で迎えないといけないような気になって、「日本から持ってきた美味しいお茶があるけど飲んでみる」って言ったら2人とも飲むって言ったの。
そこでやっと挙げてた手を下ろして解放された。
僕の事を兄弟brotherって呼び始めてお茶を飲みながら8時間話したの。
カーネギーホールには大ホール・中ホール・小ホールって3つのホールがあって、僕は小ホールでは20回くらい演奏したことがあってそのポスターを部屋に貼ってるのを見て「brotherお前すごいな!」って。
するとラテン系の若い男が「俺、誕生日なんだ」って言う。
時計を見たら明け方の4時だったけどピアノで「ハッピーバースデイ」を弾いてあげたの。
近所迷惑かと思ったけど、むしろ近所迷惑で警察に通報されたくらいがちょうどいいやと思って大きい音で弾いたんです。
そしたら泥棒が涙を流して「人生で初めてピアノを弾いて祝ってくれたぜ。ありがとう。もっと弾いてもっと弾いて」と言われて、明け方4時から小1時間リサイタルしたんです。
そしたら取った物を全部返してくれた。
それで2人が帰る時に黒人の男から「よぅ!鍵かけとけ!」って怒られたの。
今までいろんな人に怒られてきたけど、あんなに説得力のあるお叱りを受けたのははじめてだった。
入った泥棒から「Rock the door」と注意された、ネタじゃないんです。
今 、心に響く曲
リアム・ピッカー君作曲の「Winter」という曲です。
西川
ー彼は日本のドラマとか本とか映画が好きで、いつか日本に行きたいと思って若者なんです。
その彼がうつ病になってしまって、18才で自死してしまうんです。亡くなる
前に「Winter」という美しいピアノ曲を書き残しているんです。
彼のお母さまのリサ・ピッカーさんが、息子は行きたいと言ってた日本に行くことが叶わなかったので、日本人の誰かにこの曲を弾いてもらいたいと検索をかけて。
サワコ
GOHEI NISHIKAWAを見つけたんですね。
西川
それで曲を仕上げて、その年の12月19日にカーネギーホールでコンサートをして彼の曲を演奏することができたんです。
番組では西川さんの生演奏、心に染みわたる素晴らしい演奏で感動しました。
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